日本では、中小零細事業者が金融機関に借り入れを申し込む場合、必ずと言っていいほど社長個人が連帯保証人となることが条件となる。そして借り入れを増やそうとすれば、社長は親族や友人にまで連帯保証人を頼むような事態となる。
父の経営する会社が倒産して僕の実家が消滅し、親戚からも村八分となり、そして独立した家計を営んでいた結婚後の僕自身が乏しい蓄財を根こそぎ失ったのも、この連帯保証人制度のためである。
資本主義は本来「有限責任」が基本であるから、仮に事業が失敗した場合でも、経営者および出資者は有限責任の範囲での損害に留められる。しかし、この連帯保証人制度によって、有限責任はその範囲を拡大してしまう。
資本主義先進国では特殊な場合を除き融資には必ず「担保」をとり、連帯保証人制度はない。したがって担保価値以上の損失は諦める前提で、「金を貸す」というより「投資」する。担保価値が高いかビジネスプランが有望でもないかぎり、融資はしないものだ。
本来はそうあるべきだと思う。経済指標として「倒産件数」ばかりに注目するのではなく、「起業件数」と「倒産件数」の両方を見るべきだろう。
日本の金融機関では、担保価値以上の融資について、与信が連帯保証人制度に頼っている。また、事業者が世間体を憚る「見栄」と、終身雇用という前提で雇用する労働者の生活を支える「責任感」が、事業に見切りをつけることを遅らせ、事業延命のために借り入れを増大させ、連帯保証人の数と保証額を増やしてしまう。
「事業に失敗したら、また起業すればいい」という事業失敗に対して寛容な文化と、「働いていた事業体が消滅し失業しても、次の職に就けばいい」という割り切った労働文化があれば、事業者が融資弁済のために差し出した担保を失うことはあっても、姿を隠したり自殺したりする悲劇は防げるだろう。
そもそも何かにつけて「連帯責任」を導入するのは、時代遅れのファシズムなのだ、と感情的に決めつけておく。