芸術における批評家の存在意義

オーケストラの生演奏など聴いたことない者にとって、初めて聴く生演奏は大いに感動するものだと思う。
もしも批評家も一緒に聴いていて、「あんな音に感動するようでは駄目だ」と言ったとする。
初心者も批評家も、ただ自分の印象に基づいた感想を持ち、そこに虚偽は無い。
しかし、そもそも芸術鑑賞とは個人の内面で完結する行為であり、他人の印象と相対化できるものではないのだ。
では、何故「批評家」を社会は必要とするのか。
それは、芸術が経済活動である場合は「鑑賞」という行動も消費活動であり、消費者には経済的リスクが生じるからである。
鑑賞し終わったあとに満足した者だけが料金を払う大道芸のような仕組みであればともかく、鑑賞する前に課金されるのであれば、消費者は不満足や失望というリスクを負う。
コストがかかる芸術催事の場合、不満足なら鑑賞者に返金とは出来かねる。
そこで消費者は、消費に失敗しないためのガイドを求める。
それが「批評家」なのだ。
自分がビジネスとして芸術をおこなっているのであれば、消費者をサポートする「批評家」は味方につけるのがビジネスセオリーであり、その意味でこの批評家の顔に犬の糞をなすりつけたバレエ振付家はプロフェッショナルではない。
自分の表現を貶されて憤慨した気持ちは解るけれど、その表現が通じない感受性のレベルだからこそ、消費者のガイドが務まるのだと割り切ることが必要だったな。