「愛国心」という言葉

三島由紀夫は徴兵制に反対していた。祖国防衛は国民の崇高な権利であり、それを強制するのは国民の崇高な権利を冒涜していると言う。国防の大切さを訴え続けた作家だけど、同時に不純な精神の者が関わることを排除し、国防を金づるにする企みを断固嫌った。天皇制を支持し世襲による存続を願う反面、世襲を男系子孫に限らないという柔軟性もあった。自衛隊駐屯地に立て籠って自決した最期から「超右翼」のように記憶される人物だけど、知性がもたらす合理性と伝統愛好の情緒が織りなす矛盾を、純粋志向のダンディズムの中で葛藤してみせた人だったと思う。彼が自決した当時は日教組と全共闘が強い時代であり、マスコミは左翼にあらずんば知性にあらずという論調で、「北朝鮮は人民の天国」だと社会党が主張していた時代である。そんな時代であったから、三島独特のファッションセンスとダンディズムで彼の良識を具現化した「楯の会」を、当時の社会は陳腐な右翼集団と嗤った。三島は「親米」と「反共」の旗印のもとで資本家に媚びる当時の右翼を嫌っていたのにね。
そんな三島は「愛国心」という言葉も嫌っていた。祖国を愛する心情は自然に生まれるものであり、その心情を命名して他に強制することの卑しさを嫌っていた。人が持つ心情に命名する場合、往々にしてその目的はその心情盛んなりと自己を誇大に宣伝することであり、その心情が劣るとすることで他者を攻撃する凶器とするためである。
人間精神のゴールのひとつを「無償の愛」だと考えた場合、国境に閉ざされた「愛」をことさらに強調するのは、人類が向かうべきゴールから遠ざかることだと僕も思う。