ジャニーズ性加害問題と儒教文化

BBCによる「外圧」によって顕在化することとなったジャニーズ性加害問題
ジャニーズ事務所の社長でありタレント発掘と育成の鬼才であったジャニー喜多川氏が、自らの立場を利用して幼若なタレントたちに男色相手を強いてきたということが、事実認定された。
加害者は亡くなっているので裁けないが、被害者は多数生存されており、その人たちへの謝罪や慰撫、補償など責任問題が残る。ただし、加害者に代わってそれを果たすべき責任の所在や慰謝の程度などについては、ここでは考察しない。
本稿で考察を試みるのは、日本社会を支配する心情的規範の根底に儒教(儒学)的な価値観が存在すると仮定し、その影響がジャニーズ性加害問題が長く隠匿され被害者を産み続けてきたことに寄与してしまったという仮説である。
古代中国で誕生した儒教思想はアジア諸地域に伝播していて、韓国やベトナム社会に現在も息づいていることは文献資料などで知れるけれど、筆者は日本社会での生活体験しか無く、その体験から儒教思想の痕跡を感じるので、牽強付会を戯れに書いてみたいと思う。

滝沢馬琴の南総里見八犬伝は、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の珠を持つ八人の剣士が妨害を乗り越えて集結し、力を合わせて怨敵を倒す物語であるが、この作品のアイコンである珠それぞれが持つ文字に、江戸時代に浸透した儒教的倫理観が集約されている。以下にその意味を列挙してみる。

「仁」-他人に対する親愛の情、優しさ
「義」-正しい行いを守る・欲望を恥じる心
「礼」-社会秩序を維持するための道徳的な規範(言動・行為・服装・道具)
「智」-是非善悪を判断する能力
「信」-人をあざむかないこと、誠実なこと
「忠」-主君に対して裏表の無い態度で従う
「孝」-自身の親を敬い・従い・支える
「悌」-年長者を敬い・従う

」は人間が具えなければならない最も重要な精神性である、と儒教は説いている。いっぽうで、人は他人の「仁」の真偽を見抜くことが難しく、論語でも「巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」と、偽りの「仁」トラップにかからぬよう戒めている。しかし家族以外の人間関係において、「親しさ」や「優しさ」には悪意が無くとも虚偽による加重演出があるものであり、人との距離を縮める技法としてそれが巧みな人物は少なくない。ジャニー喜多川氏が教え子である幼若タレントの距離を縮める手段として、おそらくほんものの誠意も含有しつつも、意図的に彼らを馴致していったとも考えられる。

」とは自己の欲望を満たす「利」の反語でもあり、他利的な精神性である。実は「義」が律する欲望の中に、男性の「性欲」は含まれていないと推察できる。儒教の成立した古代中国では女性は男性の家畜同然であったから、男尊女卑は儒教の教義以前の大前提であったためだろう。儒教を信奉していた渋沢栄一は『論語と算盤』の中で、自己の利益ばかりを追求して公共の利益を無視するビジネスマインドを厳しく戒めている。その渋沢栄一も論語によって性欲が抑制された気配は無く、女性関係は終生活発であり、婚外子を少なからず作っている。渋沢栄一ひとりが例外だったわけでもなく、戦前に存在していた姦通罪は妻の不貞のみを罰するものだったし、江戸期の不義密通も罪に問われる主犯は妻であり、相手の男は共犯者であった。暴力や脅迫で性器・肛門・口腔を使う性行為を強いる強制性交罪の被害者が、刑法において女性に限定されなくなったのは実に2017年の刑法改正からだから、それまでは男性が強姦されるという概念を法律は持っていなかったのだ。1907年に成立したこの刑法の根底には、男尊女卑の儒教的価値観が存在していたと考えられる。よって1931年生まれのジャニー喜多川氏が、自己の地位を利用して少年を性的に犯しても、彼に罪の意識は無かっただろう。
以上から「義」とは則ち「価値観」であり、「義」によって定義される「」と「」の価値を保つためにも、常に「義」はアップデートされなければならない。このアップデートを怠り、古い「義」に拠る判断を下級の者に強いることで「義の仲介者」として自己の権限と地位を補強し、それをもって「礼」であり「智」であるとする自己満足が臆病な防衛本能を糊塗し忖度を生むのである。この性加害問題をBBCという外圧があるまで看過してきた大手メディアの権限ある人たちにも、それがあったのだと推測できる。

虚偽の誠実さではジャニーズ事務所の事業があれほどに盛大となるはずは無いので、ジャニー喜多川氏は誠実な人として信用されていたのだろう。その「」あるがゆえに、彼の陰の行為の風聞に接しても、容易に人は信じられなかったのだ。「信」という評価も一時的なものと看破し、必ずしも包括的に人間の価値を保証していないと警戒すべきである。

「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」という頼山陽の日本外史にある平重盛の台詞は、父である平清盛への「」と主君である後白河法皇への「」の板挟みとなって苦悶する重盛の心情を表現した言葉である。さて、儒教では基本的に「孝」は「忠」よりも優先される。これは儒教が誕生した春秋時代の中国では、血族関係が君臣関係よりも優先される環境だったからであり、その後の時代も替わる王朝のもとでいかに血族を保つかが重要だったし、一族を挙げて仕える君主を変える選択もあったからだろう。日本では平重盛の例にあるような「孝」と「忠」の矛盾解消のため、吉田松陰は「忠孝一致」をもって日本のあるべき姿と説き、これに対抗して「孝」と「忠」を合体させた「誠」という概念も生まれた。ジャニーズの幼若タレントは合宿状態だったようだから、体育会系のように年長者を敬う「」も礼儀として仕込まれただろうし、彼らにとって経営者であり師匠であり親代わりでもあったジャニー喜多川氏は、「孝」と「忠」と「悌」を合わせ持ったキメラだったから、逆らったり陰の行為を暴露できるような環境ではなかったのだろう。

筆者は必ずしも、儒教が社会規範の根底として存在することに反対はしない。五常の徳と呼ばれる「仁」・「義」・「礼」・「智」・「信」の概念は、有意義なものだと考える。しかし、「仁」も「信」も表層的な人物判断では見誤る可能性があり、ましてや伝聞の人物評などでその人物の定義を固定し更新を怠ってはいけない。同様に、社会環境に合わせて「義」のアップデートを怠ると、「礼」も「智」も無価値に堕する。

以上、あらゆる思想や宗教と同様に儒教的価値観についても、古い定義に固執して更新を怠ると運用を誤るものだということを、この戯説を書くことで表現できたと考えている。