《みんな》という第三者的集合体

大阪大学社会経済研究所がおこなった実験結果から飛躍した推論をしてみると、日本人はどうやら、公共財を作ろうとする時に自らの労力や投資を惜しみ公共の利益だけをチャッカリ得ようとする狡猾な者を許すまじ、ということに力を注ぐ傾向にあり、アメリカ人は公共財の作成に他者よりも尽力することで名声を得て、公共の中での英雄となることを目指す傾向だと読み解ける。
この極論を、共同体において公共に尽くさない人間を許さない「《みんな》が主語」の日本人と、公共に尽くさない人間は英雄を目指す競争の弱敵として無視できる「《私》が主語」のアメリカ人という図式にすると、大袈裟に言えば、英雄の出現を許さない社会か、期待する社会か、という対比となる。
日本人は潜在意識で英雄の出現を望まないと考えると、大統領制もメシアの宗教も支持が広がらず、むしろ時の総理大臣(ある意味で英雄)を悪者にして不満の捌け口にする姿に合点がいく。卒業時に新卒者を一括採用するけれど、大学院まですすむと採用されにくい。学歴社会のわりに研究課程修了者を粗末にするのは、英雄の芽を詰んでおきたいからだと疑いたくなる。
不運や不幸に見舞われた時、キリスト教徒のアメリカ人ならば「神よ…」と運命を嘆くだろうが、日本人は「なんで自分だけ…」と、《みんな》から脱落したという不公平感でいっぱいとなる。

ところで、この駄論において日本人の主語とした《みんな》とは、英訳するとなんだろう。
「みんながそう考えている」と言って説得ないし論破を試みる場合、対話相手は《みんな》の概念を共有する同じパブリックの構成員であると考えられる。
パブリックの総意ならば「我々はそう考えている」でいいはずなのに、敢えて《我々》ではなく《みんな》を持ち出すのは、自分と対話者を除いた第三者的集合体である《みんな》が、自分の背後に控え後援しているという虚勢であり、自分の意見に賛成することがパブリックの合意や共感への参加であることを示し、賛成しなければ仲間はずれにされると脅迫しているのだ。
もちろん、時として「自分は《みんな》と同じことを考えているわけじゃないよ」ということを仄めかすこともあるけれど、内心では《みんな》の言ってることに強く影響されて心細くなっていたりする。
この《みんな》は第三者的集合体である以上、英語で言うところの「we」ではないし、ましてや「everyone」や「everybody」ではない。自分と対話相手を除いた全員を指す単語、たとえば「everyone but us」を一語で表す英単語があるのだろうか。恥ずかしながら不勉強のため、知らないのだ。

子供の頃からあって今でも時々聞く、「みんながね…」と言う時の《みんな》って、いったい誰のことなのだろう。