使途不明が諸悪の根源

ソーシャルネットワークサービスにおいて「炎上」とか「誹謗中傷」が起きているのは、ひとつにはコメント投稿者の正体が秘匿されていて好き勝手なことを無責任に発信できるからだけど、さらに細分化してみると、だいたい「読むのに3分以上かかる文章」や「見るのに3分以上かかる動画」は読まれないし見られないので「炎上」も無く、「誹謗中傷」コメントがあっても特定の人間なので無視できるレベルである。
そんなコンテンツでもアクセスが多い場合は、「長い文章を読んでくれる」「長い動画を見てくれる」という支持層がほとんどなので、コメント欄は讃辞に満ち、それはそれでアカウント運営者を勘違いさせている。
これはインターネットに限ったことではなく、政治集会や演説に集まるのは「長い話を聞いてもいい」という支持者ばかりである。
支持も不支持もない多くの人にとって興味の乏しい内容なので、できるだけ多数に伝えたい政治報道は内容を編集して短くまとめる必要が生じる。そして、この「まとめ作業」の取捨選択にメディアの思想信条が表れてしまい、結果的にメディアが世論を誘導する形となる。権力監視の任務を自負する報道メディアの情報に政権批判の色が濃くなるのは自然であり、切り取られて報道される情報だけで判断する国民が多いほど政権支持率は下がる。
政権演説を聞くことや政治信条を述べた書籍・小冊子を読むことは多くの国民にとって退屈であり、そのために余暇を使うことはない。
立候補者が選挙に勝つためには、投票用紙に書いてほしい自分の名前が、選挙区にとって親和性が高く信頼できるものであるという「印象」を有権者に植え付ける必要がある。講演や政治集会に集まるシンパだけでは、選挙に勝てないのだ。
地域の式典や運動会、冠婚葬祭などに顔を出し、郵送やポスティングで政見チラシを投函するなど、地道なプロパガンダを継続的に続けて「印象」を育まなければ、とても選挙には勝てない。このコストが莫大であり、政治資金を必要とするのは、まさにこの部分なのだ。この「印象」を相続できるから、政治家の家系が強いのである。
こういう「民主主義とはコストのかかるもの」という認識が国民に無いから、単純に政治資金を「悪」とし、政治に金がかかることを怪しむのだけれど、民主主義のコストを膨らめているのは、実は国民自身なのである。
政治資金の使途を明瞭にして民主主義のコストを明らかにすることが、今や政治家の優先課題となっている。