ふたりのエリート

今からおよそ25年前、僕が勤めるボウリング場の親会社が破産し、グループ企業まるごとモルガン・スタンレーの日本法人に買収された。さらにモルガン・スタンレーが他で買い漁った日本国内のレジャー産業(ホテル・ゴルフ場・ボウリング場・スキー場・レストラン)をまとめたレジャーマネジメント会社が設立され、僕はそこで経営企画部に配属されて、主にゴルフ事業部とホテル事業部のサポートを仰せつかった。そのうちに、僕がかつて支配人をしていたボウリング場の業績が悪化したために、経営企画部課長のまま支配人を兼務し、業績を回復させたりと大忙しだったけれど、この時代で印象深かったことがふたつある。

ひとつは、当時モルガン・スタンレー日本法人不動産部門の社員が殺害された事件
これは夫人による猟奇殺人のように騒がれ、社内ではマスコミ取材に対し厳しい箝口令が布かれたし、僕は経営企画部員として殺害された社員とも面識があり、とてもスタイリッシュな好青年の印象だったから、ことさら衝撃的だった。当時は週刊誌ネタにもされ、被害者がエリートだったからか彼についての記事が悪意に満ちていて、気の毒に思ったことを覚えている。

もうひとつは、幼友達との邂逅である。
中学生の頃、僕の育った家とはバス通りを挟んだ斜め向かいに、木工業の家族が作業場を建てて引っ越してきた。そこの長男とは母親同士が仲良くなった影響で、一緒に宗教団体の練成会に行かされたり、高校進学のための同じ塾に通ったりした。塾での成績は、数学と国語では僕のほうがちょっぴり出来たけれど、英語では圧倒的に敵わなかった。僕は内申点が大幅に不足してナンバーワン県立高校の受験すら許されなかったけど、内申点の良かった彼はその高校を受験したものの合格できず、千葉の全寮制私立高校に進学して親元を離れ、それ以降は会うことも無くなっていた。
彼が一浪後に名門大学に入り、在学中に英語スピーチ大会で国内一位になった話などは聞いていたけれど、その彼が研修会に講師として登場し、三十数年ぶりにその姿を見ることになって驚いた。頭髪がすっかり禿げ上がっていたものの、知性と貫禄を身に着けた彼は、卒業後に入社した日本企業からゴールドマン・サックスに転職して、東アジア地域での要職を歴任していた。リーマンショックの影響でゴールドマン・サックスを去ったのち、知見を活かしてコンサルタント会社を設立し、モルガン・スタンレーに講師として呼ばれたのだった。
会場いっぱいに座る聴衆のひとりに過ぎない僕に彼は気づかなかっただろうけれど、僕は名前と声とプロフィールで、すぐに彼と気づいた。すごい大物になったものだと、僕は素直に感嘆した。ただ僕は、50歳を目の前にした彼我の差に惨めさを感じてしまい、研修会が終わったあとに名乗り出ることをしなかった。少年時代に豪語していた漫画家になる夢を果たせず、家族を養うのに精一杯な今の姿を彼の目に晒したくなかったし、もしも彼が僕を覚えていなかったら、さらに惨めだとも危惧した。つまらない自尊心だったかも知れない。でも、それでよかったのだと今でも思う。

「これから」というところで、若くして殺害されてしまったエリート。努力を重ね地位を築いたエリート。
何人ものエリートたちを見上げる経験をしたけれど、このふたりのエリートは特に思い出に残る人たちである。