夢が叶わなくて幸福だった、かも知れない

漫画家になることを諦め静岡市の実家に戻った僕は、結局父の会社を手伝うことになった。
最初の主な仕事は軽トラックで内職を回り、材料を配りつつ完成品を回収する仕事だった。
夢を追いながらも、僕に今ひとつ行動力が乏しかったのは、父が会社を経営していて、長男である僕はその後継者になれるという打算があったからだと今では思い当たるけれど、いざその路線に乗ってみると毎日が虚しくやるせなかった。
オーダーメイドの背広を作ってもらい、名古屋や東京に商談にも行かされたけど、社長の息子ということで取引先は気を遣ってくれる。
最初のうちは無警戒に「東京で漫画家を目指していました」なんて正直に話していたけれど、それがどれぐらい自分の評価を下げているのか解るようになってきて、いい歳まで幼稚に生きてきたことを後悔した。
僕は25歳にしてようやく、大人になり始めたのだ。

母の一番下の弟である叔父は、歳が僕と10歳違いだったので、兄のように僕を心配してくれていた。
僕が実家に戻ってきたと聞いて、時折遊びに来てくれていたけれど、たぶん1986年のことだったと思うけど、「パソコンを買い替えたからお古をくれてやる」と、PC-9801を持ってきてくれた。
「モニタは自分で買って」と言われたので、パソコンショップに何度も足を運び、自分なりに慎重に選んで購入した。
オペレーションシステムはMS-DOS、叔父がパソコン本体と一緒にテキストエディタのMIFESをくれたので、しばらくはこのスクリーンエディタで雑多な文章を書いて過ごしていた。
エディタで文章を書くことに飽きてきた僕は、ゲームソフトでも買おうとショップの棚を眺めていたら、QuickBasicというパッケージが目に入った。
漫画という創作活動をやめた僕にとっては、運命の出会いだったと思う。
あのまま何かゲームソフトを買って帰っていたら、僕はただの引き籠り中年になっていたかも知れないし、その後のWEB活動も無かっただろう。

パソコンショップの書籍コーナーには「QuickBasic入門」も売っていたので、僕はこの統合開発環境パッケージと入門書を買って帰った。
QuickBasicの編集画面はとても親切な設計になっていて、まず画面に文字を表示するプログラムはすぐに書けた。
この超シンプルなプログラムが動いた時の達成感は、漫画を描いていた頃を思い出させてくれて、それからは毎晩、僕はQuickBasicにのめり込んでいった。
だんだん大きなプログラムを作るようになるにつれて、QuickBasicが持つデバッカやブレイクポイント機能がとても役に立ったし、構造化言語という仕様を理解したことも、のちにC言語をマスターすることに役立った。
やがてグラフィックも使えるようになり、一ヶ月ぐらいかけてゲーム「川中島の合戦」を完成させた時には、漫画を1作描き上げた時のような高揚感を味わうことが出来た。
このゲームをコンパイルしてフロッピーに保存し叔父に渡したところ、パソコン入手から1年足らずでこれを作ったことを物凄く褒めてくれた。
漫画家を諦めて目標と自信を失っていた僕はこの高評価に有頂天となり、ささやかな野心が目覚め、かねてより目星をつけていたQuickCを購入した。

さすがにC言語のハードルは高かったけれど、難しいことは後回しにして、とりあえずシンプルに動くプログラム作りを心掛けていくうちに、自分でも不思議だけれどポインタという概念がスッと理解出来た瞬間があった。
QuickCの開発環境がQuickBasicとほぼ同じだったので、デバックの要領が理解し易かったことも、僕の理解を助ける役目を果たした。
インクリメント( b=++a; とか b=a++; )などのC言語の文法が面白く、QuickBasicで作ったプログラムをQuickCで作り直したりして理解を深めつつ、僕はC言語に夢中になった。
高校時代に同人誌作りに没頭して頃の生き甲斐を、再び得たようなものだったな。

その後、パソコンのOSにはDOS/Vが登場し、その後継のようなWindows3.1が人気を得ていたけれど、90年代初頭にPC-9801を買い替えていた僕は、自作のソフトが動くMS-DOSを使い続けていた。
父の会社の在庫管理システム(生産数によって製品ごとに部品在庫数が自動更新されるもの)や、プロボウリング協会静岡支部の成績管理システムなども自分でプログラムし運用していた。
その間に結婚し子供も出来ていたけれど、バブル崩壊による貸し剥がしの嵐は父の会社にも押し寄せ、資金繰りが苦しくなっていた。
経営が悪化するなかでもライオンズクラブの活動に夢中になり、市会議員に立候補するなどと言い出す父との仲はどんどん険悪となっていき、手形を落とすために僕たち夫婦が子供のために始めていた学資保険を解約して資金提供したり、ついには僕の給料の遅配まで起きた。

僕の家庭は困窮し、希望を失った妻から遠回しに離婚を匂わされたと感じた僕は、1994年に父の会社を飛び出した。
まず、プログラマーで食べていけないかと、ソフトウェア開発会社の求人募集に応募してみたけれど、理系の出身でもなくソフトウェア開発のビジネスキャリアも無い36歳の中年男は、まったく相手にされなかった。
それどころか、新卒でも厳しいバブル崩壊後の就職氷河期であったから、様々な業種で面接に落ちた。
経営者一族の個人用自動車を社用車扱いにして、会社の経費で購入することは中小企業にはありがちなことだけれど、僕の使っていた車も父の会社所有であったから、返却するように父から連絡があった。
父は、飛び出した僕がそのうち音を上げて戻ってくるとタカを括り、困らせようと考えたのだろう。

僕にも決意と意地があったので、父の思惑どおりにはならなかった。
家族のために自家用車が必要だったので、ともかく生活費を稼ぐために、営業車を休日は自家用利用できる緩い会社を狙って就活を挑んだ。
なんと、そんな条件を飲んでくれた会社があったので、僕は迷わずそこに入社した。
焼津市にあったその会社は変電設備を売る会社だったけれど、中部電気保安協会から目の敵にされていた。
営業車を通勤用に使用する条件で入社した僕は、営業車の私用分ガソリン代を会社負担にしている代償として、かなりマジメに営業活動をしたけれど、中部電気保安協会とバッティングした時には「信用」の差で圧倒的敗北を喫するばかりだった。
入社して数ヶ月経った頃、会長宅でパーティーがあるから一緒に来いと社長に言われた。
訪問した会長宅は立派な門がある大きなお屋敷だったけれど、門番のような形でスーツ姿の男たちが立っていた。
ちょっと芽生えた恐怖心を僕は必死で抑え、大広間に通されて宴会が始まった。
そこでなんとなく理解したのは、会長が刑務所から出てきた祝賀会のようだということ。
会長はいくつもの会社を所有しているようで、僕の入社した会社もそのひとつだった。
順番が巡ってきたようで、社長と僕が会長の席の前に呼ばれた。
社長が「うちの有望社員です」と僕を紹介し、会長が「そうか、そうか」とビールの瓶を持ち上げた。
察した僕は、傍にいくつも並べられていた空のコップのひとつを取り、会長のお酌を受けたのだった。

古参の社員に問い質してみると、社長が起業した時には社長が会社のオーナーだったが、運転資金の調達に絡んで会社の所有権を会長に奪われたらしい、という話だった。
中部電気保安協会からは詐欺会社のように言われているし、そろそろ見切り時かと判断した僕は、営業の合間を縫って転職先を探し始めた。
次に入社したのは土地開発の会社だった。
遊休地を探して権利関係を調査し、地権者を特定するとその土地の有効活用を薦めるのがビジネスである。
地権者に借金させてアパート・マンション・貸しビル・貸店舗などを建てさせ、その建設を請け負う建設会社でもあり、また入居者を斡旋仲介し物件の管理も行う不動産仲介の会社でもあり、全国でテレビCMを流している名の売れた会社だった。
こんな大企業でも営業部隊は人海戦術で消耗が激しく、離職率も高いから中途採用されやすい。
父の会社を飛び出してからの半年足らずで、僕は生き抜くための情報を多く仕入れていたのだ。

この会社の静岡支店に採用された時に、思いも寄らぬ再会を果たしたのが岬とおるだった。
一級建築士だった彼は、大学を卒業して大手住宅会社に就職したはずだったのに、転職していたとは知らなかった。
高校時代に同人誌を一緒に作り、同じような夢を見ていた時期もあったけれど、僕の結婚式に招待した後、交際が途切れていたのだ。
彼は支店の設計部に所属していた。
彼からは「この会社の営業はキツイよ」と警告を受けたが、それは想定の範囲内だった。
通勤用に営業車の使用を認めてくれ、そこそこの給料も出る。
待遇が悪くないのに離職率が高いのは、仕事がキツイからに決まっている。
案の定、入社3ヶ月を経た後は、3ヶ月ごとに目標未達成の営業部員は本社に呼ばれ、本社の講堂で本社社員を前にして、目標未達成の理由を話さなければならない。
目標を立てるのが業務命令であるとは言え、自分で立てた目標である。
「自分なりに頑張った」などと言えば「向いてないんじゃありませんか~」とヤジが飛ぶ。
何かしらの理由をつけて説明するのだけれど、「それは言い訳だ」とヤジられる。
そりゃそうだ、言い訳だもの。
気の弱い者は辞表を出して会社を去っていった。
これは自己都合退職を誘導するための仕組みに違いあるまい。
離職率の高さを納得した。

この会社には1年半ほど在籍したと思う。
成約に至らずとも、緻密な調査で有望な見込客を見つけ出してくる手腕が買われていたからだろう。
支店長の計らいで、目標未達成でも本社の吊し上げ儀式に呼ばれることもなく過ごすことが出来た。
僕が提案したプランで他社が貸しビルを建てたこともあり、詰めの甘さを指摘されたこともある。
ある程度話が煮詰まってきても、いざ数億円の借入をする段階で地権者やその親族が恐怖感に囚われ、両手を合わせたり涙目になったりして破談を懇願してくる。
できる営業部員はこういう局面で「今更何を言うのですか」と強面になり、相手の弱気を押し倒して成約に結びつけるらしいが、僕にはそんな鬼のようなことが出来なかった。
支店長は僕の日報を読んで他の営業部員に見込客を割り振っていたが、それが自分の雇用を守ることだと僕は理解していたので、そこには暗黙の了解があり、成約が無くても僕の雇用は継続され、成約ボーナスを受け取る事も無く日々は過ぎていった。

そんなある日、ボウリング仲間から大手紡績会社の系列ボウリング場チェーンに入社しないか、という誘いの電話があった。
ローカルチャンピオンボウラーのひとりだった僕は、父のもとを飛び出して2年、ボウリング場から遠ざかっていた。
その仲間がボウリング場チェーンの総支配人と雑談を交わした時に、僕の話が出て、総支配人が人材として興味を示してくれたらしいのだ。
漫画家を目指して失敗した経験から、僕は趣味を仕事にすることを避けていたけれど、土地開発の調査営業に疲れ果てていたこともあり、この話を前向きに受け止めることにした。
僕がボウリング業界に入るという話を聞きつけた知り合いのプロボウラーを介して、更に2社のボウリング場運営会社からオファーが届いた。
かつて何年間かプロ協会静岡支部の成績管理をしていたことが覚えられていて、単にボウリングが巧いからというわけではなく、マネジメントスキルを買われ幹部候補生としてのオファーだったので、38歳になっていた僕は、この業界に賭けてみようと思った。

僕は最初に声をかけてくれたボウリング場チェーンに入社することに決め、静岡県小笠郡浜岡町(現:御前崎市)に家族を連れて赴任した。
この数年後に父の会社が倒産し、僕は自分が連帯保証人となった分の借金に苦しむことになるのだけれど、それは別に書くこともあるだろう。
浜岡での暮らしが落ち着き40歳になった1998年、僕はWindows搭載のPC-9801を購入した。
もうMS-DOSの時代ではないと感じていたし、ボウリング場オフィスにWindows機とインクジェットプリンタがあったので、互換性のある環境を持ちたいと思ったからだった。
まだ表計算ソフトを使いこなせていなかったので、任されていたプロショップの出納および在庫の管理は、自作したソフトをMS-DOS環境で動かしておこなっていたけれど、グラフィックソフトを購入して自宅とオフィスの両方にインストールし、Windows環境でチラシやポスターを作り、オフィスのマシンでプリントアウトしていた。
ボウリング場ではフロントやプロショップの業務に追われてパソコンの前に座る時間があまり無かったから、やり残した仕事を自宅に持ち帰ってこなしていた。
そもそもパソコンを扱える人間が会社に少なかったし、僕の生産性は企画力や管理能力も含め支配人、総支配人に高く評価された。
このことが、のちに飛躍的な職位向上に繋がったのだと思う。

1999年にサービスプロバイダと契約し、ダイアルアップ接続でインターネットを開始した。
のちにテレホーダイを導入するまでは、サイトのダウンロードが完了したらインターネットを切ってからじっくり見る、というマメな作業をして電話料金が嵩まないように工夫していた。
テレホーダイとは深夜早朝の時間帯(深夜23時から翌朝8時まで)に限って、最大2つまで指定できるダイアルについては通話時間の長さに限らず電話料金が定額というサービスで、ボウリング場の深夜勤務から帰ると毎日朝までインターネットをしていた。
そしてISDNさらにADSLと、インターネットの接続環境は進化していくのだが、借家住まいの僕は宅内工事が必要なISDNは見送り、専用モデムだけで接続可能なADSLを導入することになる。

インターネットでよく見ていたのは、プログラマーのサイトだった。
そこに書かれていたコーディングの美学に感化され、僕は自分の我流プログラミングの醜さを痛感させられた。
僕はほとんど自分のためにプログラムを書いていたから、動きさえすればいい、処理結果が誤っていなければいい、というスタンスだった。
他人が僕のプログラムを修正したり、僕自身が他人のプログラムに手を加えるなどという経験が皆無だったから、レムコメントも我流で付けていたし、ともかくプログラミングの作法など全く知らなかった。
またコーディングについても、僕の書くコードは遠回りで無駄が多く、それが処理速度を損ないファイルサイズを大きくしていたと知った。
漫画で云うと、線が汚い、構図が悪い、デッサンが狂っていると言われているようなもので、要するに「絵が下手だ」と自己批判した。

フリーソフトと謂う、無料でソフトを提供する個人サイトもたくさんあって玉石混淆だったけれど、自信のある人はソフトウェアだけでなくプログラムコードも公開していて、それを見た時にはまさしく漫画で云えば「絵が巧い」と感心させられ、と同時に勝手な敗北感を味わった。
コーディングだけでなく、ソフトウェアの用途と機能についても感心させられることが多々あり、漫画で云えば「面白い!」「着想が秀逸!」という《やられた感》満載の経験をした。
インターネットによって広い世界と繋がり、僕は自分のスキルを客観視出来たことで、それまで根拠の無い自信を抱き夢中となっていたソフトウェア製作という遊びから卒業したのだった。
2011年頃に系列のフットサル場から頼まれて、会員管理システムをエクセルのVBAで書きコンパイルして納品したことがあったけれど、2000年代に開発言語でプログラミングすることは無くなっていた。
2000年からWEBサイトを運営するようになって、頒布されていた無料CGIの改造にC言語の知識が活きた、という経験はあったけれど。

漫画家を夢見て素人漫画家を続けてきた青春時代、プログラミングで生計を立てたいと密かに望み素人プログラマーを続けてきた中年時代、どれも自分の能力の壁に直面して諦める結果となったけれど、38歳でボウリング場チェーンに入社できる機会を生んだのも、この会社で役職定年までに従業員の最高位である執行役員まで昇進出来たのも、また、WEBのカリスマ1000人に選ばれたのも、夢中になって大それた夢を追い、夢は叶わなかったけれどそれなりのスキルが身に付いた結果であると思う。

63歳の今になって思えば、夢が叶っていたほうが現在よりも不幸になっていたような気がする。