人は作品を鑑賞するとき、その作品の解釈をその作品を生み出した作者に求めがちである。そこには、「作品を鑑賞するということは、作者の意図を正確に理解することである」という考え方があるのだ。その考え方を否定はしないけれど、「作者」というものに焦点を当てる鑑賞方法は正しいのだろうか。
シャルル=ピエール・ボードレールの詩集『悪の華』が、発表当時に公序良俗に反すると摘発されたという経歴が、読む以前に僕に過大な期待を持たせた。ゴッホの狂気を知っているために、彼の描いた絵画を鑑賞する僕の印象はその情報の影響を排除できない。凡そ、夭折した作家の作品が長命な作家の作品よりも輝いて見えるのは、短命がゆえに醜聞を世に留めなかったためではないのか。崇高な作品を残す作家・芸術家が、崇高な人生を歩むとは限らない。多くの場合、作品とは縁遠い人生である。作家・芸術家といえども世俗の人間であり、むしろ大衆以上に世俗的であったり獰猛、淫乱であったりする。作者の人としての価値と、作品の価値は相関しないのだ。
文学における物語や言葉の構造分析、作画や作曲における技法の解析は研究としての価値があるけれど、「作った人間がどのような者なのか」は鑑賞を妨げる夾雑物に過ぎない。その作家の「人間」を知る以前と以後では、作品から得られる価値が異なってしまうものだ。10歳程度の子供が描いたと思われる絵を見せられて、実は3歳の子が描いたと聞けば驚くけれど、驚かされたのはその3歳児であって描かれた絵ではない。何歳の者が描いたとしても、それは「10歳程度の子供の絵」以外の何物でもないはずである。しかし鑑賞力や審美眼に自信の持てない我々は、「作者」情報によって鑑賞を補完する。勝海舟や西郷隆盛の揮毫から感銘を受けるとしたら、それは彼らの事績を少なからず知っているからである。
「画商無くして画家は無い」と言われた時代、芸術がビジネスとして発展していく過程では、芸術家の持つ人脈が死命を決していた。奇異な生活態度で自己を演出し、通俗との隔絶を強調する印象操作でブランディングする者も居た。芸術を生業とする以上、芸術の生産者として認められることが重要だったのだ。これは現代でも変わらないし、範囲を芸術から芸能、スポーツ、果ては政治の世界にまで広げている。活動の成果だけではなく、活動の舞台外での発言や生活態度も情報化され、それによって醸し出された人物評価が活動の評価に影響を与え、それを印象操作の手段として評価の向上に役立てることが一般化している。だからこそ余計に、作品などの業績にだけ目を向けて評価すべきなのだと思う。偉大な業績、崇高な作品を残した者であっても、所詮は同じ人間なのだ。その人間としての振る舞いが、彼らの生んだ業績や作品の価値を貶めるものでもなかろう。